母の言葉と、これからの私たち

母の厳しさと「走ること」
私の母は、とても厳しい人でした。
「勉強しなさい」と言われた記憶は一度もありません。けれど「走ること」については、1ミリも妥協を許さない人でした。
陸上との出会い
私が陸上を始めたのは小学3年生のとき。100メートルを走ると思って参加した県大会で、当日急に800メートルに出場するよう言われ、嫌々走ったレースでまさかの2位入賞。あの瞬間が、私の陸上人生の始まりだった気がします。
田舎の小学校ではぶっちぎりに走るのが速く、まったく練習もしていない800メートルで表彰台に立ったことが、自信となりました。
そこからはタイムも順調に伸び、母の期待もどんどん大きくなっていきました。私も母に褒められるのが嬉しくて、もっと頑張ろうと思えた。中学2年までは、自分でも誇れるような成績を残してきたと思います。
スランプと進路の選択
でも、中学2年のとき初めてスランプに陥りました。走ることが楽しくなくなり、短かった髪を伸ばし始めて、自分でも「やる気がないな」と思う毎日。
勉強もしてこなかった私は、高校の進路に悩みました。そんなとき、県内で唯一体育コースのある公立高校から声をかけてもらい、「勉強したくないなら、走って公立に行こう」とその高校に進学を決めました。
再起と全国大会への道
そこから再び意識が変わり、高校では強豪校の寮生活にも慣れ、全国大会や国体にも出場。周囲のサポートもあり、陸上に真剣に向き合い続けることができました。
走ることをやめた瞬間
でも、大学進学を機に私の気持ちは変わりました。
親元を離れ、これまでの拘束から解放されたことで、「もう走りたくない」と思ってしまった。都会の生活、自分の知らなかった世界に触れ、「自分の人生って何だったんだろう」と思うようになったのです。
やらされていた感覚、母の期待、それらから離れたことで完全に走る気力はなくなっていました。
母の一言と、自問の日々
大学を辞め、実家に戻る日。母に言われた言葉は、今でも忘れられません。
「あんたから陸上を取ったら何が残るの?」
その言葉に、私は完全に打ちのめされました。確かに学歴も資格もない私にとって、陸上はすべてだった。なのにそれを手放した私は、何者でもないような気がして何をすればいいか分からなくなりました。
アルバイトから始めようとしても、母は許してくれなかった。
私がやってきたことは、何だったのだろう――。ずっと自問自答の日々でした。
母になって分かったこと
でも、今私は母になりました。今なら少し母の気持ちが分かる気がする。
私に期待してくれて、時間とお金をかけ、必死に子育てをしていた母。自分の感情をうまく伝える余裕なんてなかったんだと思います。
それでも、私に手をかけ、信じてくれて、ありがとうと今は心から言えます。
今の母との関係
母との関係は今、とても良好です。
今では、私の子どもたちの応援団として、手伝いやサポートをしてくれています。
子育てに正解はない
子育てに正解はない。それは、親になって本当に実感しました。
私も、娘たちが何かに秀でていたとしても、「あなたがどうしたいか」が一番大切だと伝えていきたい。
才能があるということは、ある意味視野を狭めてしまうことでもある。他の選択肢にも目を向けられるように、心の準備を整えておいてほしいと思います。
子どもたちと共に歩む
子どもたちの人生と、私の人生。2つの道は違うもの。
4人の人生に関わらせてもらえることに私は幸せを感じています。
つまずいたら、休めばいい
つまずいたら、休めばいい。
その時は、私も一緒に休んで、美味しいものを食べて、明日のことは明日考えれよう。私は子供たちが壁にぶつかったらそうしてあげたい。
そして、誰かの一言で「また頑張ってみよう」と思ってもらえるような、そんな人になれたらいいなと思います。